疲れた。
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(この記事は、途中です。)
病は気から?――「ウツ」は“闘って”治るものなのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(13)
http://diamond.jp/series/izumiya/10013/
一般的に現代人は、何らかの病気にかかると、「闘って克服すべきだ」と考える傾向があります。これは「うつ」の場合も例外ではありません。
しかし、この「病と闘う」という考え方そのものが、実は「うつ」の回復を妨げてしまう側面をもっていることは、案外気づかれていません。「一日も早く治りたい」と思えば思うほど、「病を克服せねば」「病気に負けるな」と考えてしまうのは当然の心理なのですが、それが皮肉なことにかえって「うつ」を長引かせる結果を生んでしまうのです。
では、この厄介なジレンマをいったいどう考えたらよいのでしょうか。今回はこの点について掘り下げて考えてみましょう。
「治そう」という気持ちが足りないのか?
「何も生産的なことをしないで一日中横になっているなんて、本当に自分はダメな人間だ……」
程度の差はあれ、大概の患者さんはこのように自己嫌悪しながら療養しています。
そこに運悪く、古風な精神論を信条としている人が周囲にいて下手に関わってきたりしますと、「なかなか治らないのは、『治そう』という気が足りないからだ!」といった心ない言葉を発せられてしまうことがあります。また、実際誰かにそう言われたのでなくとも、患者さん自身が自分でそういう見方をしてしまっていることも珍しくありません。
その結果、患者さんは、「私はきっと『治そう』という気持ちなんか持っていないんだ。私はたんに怠けたいだけなんだ」と、「怠け病」のレッテルを自分自身に貼ってしまい、いっそう自己嫌悪に陥ってしまうことになります。
「治そう」という気持ちは、治療に対するモチベーション(動機づけ)のことであり、そういう気持ちはあるに越したことはないじゃないか――常識のレベルで考えれば確かにそうでしょうし、それなしには治療自体が始まらないわけですから、もちろん不可欠なものでもあります。
しかし、そのレベルだけで「うつ」の治療を進めていきますと、残念ながらあるところで壁にぶつかってしまって、先に進むことができなくなってしまうのも事実なのです。
力ずくの「北風」方式には限界が……
近代以降の西洋医学の考え方は、「病気」を悪とみなして、治療によって駆逐しようとする傾向がベースにあります。この考え方は今日、医療側のみならず、一般の人たちにもすっかり浸透したものになっています。
しかし、イソップ童話の『北風と太陽』の話に喩えれば、これは力ずくで目的を達しようとする「北風」のやり方に相当するもので、力を込めれば込めるほど皮肉にも裏目の結果を招いてしまうという限界をはらんだ方法論になってしまっています。
病は気から?――「ウツ」は“闘って”治るものなのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(13)
http://diamond.jp/series/izumiya/10013/?page=2
近代以降の西洋医学は「病気」を自分とは別個の異物として対象化し、それを悪とみなして除去したり、薬物などの爆弾を投下して一掃しようと試みたりしてきました。しかしながら、このやり方が通用するものにはどうしても限りがあり、また、たとえそうできたとしても「再発」の不安が拭いきれないという限界があります。つまりこの方法論は、いわばテロによる逆襲のリスクを残してしまうような実力行使型のアプローチなのです。「うつ」の治療の難しさは、まさにこのような西洋医学の方法論自体の限界と密接に関係があると考えられます。
それでは、「太陽」の方式に相当するアプローチとはどのようなものでしょうか。
「うつ」にはメッセージが含まれている
西洋医学は歴史的に進歩発展を遂げる途上で、大切なものをいくつも切り捨ててきました。それはたとえば、「病はメッセージをもっている」という考え方であり、「症状は本人をより望ましい状態に導くための作用の現れである」といった捉え方です。
以前、「昼夜逆転」についてとり上げた際(第7回参照)には、「昼夜逆転」という症状の意味を〈汲み取り〉、あえて症状に〈従ってみる〉という考え方を提案しました。これが、従来の治療で見落とされていた視点を生かした新しい発想の一例です。「昼夜逆転」は症状の1つに過ぎませんが、では「うつ」という病気全体については、どのように発想できるでしょうか。
「うつ」の運んでくるメッセージは、重層的なものであると考えられます。つまり、「無理が続いたのでゆっくりと休養しましょう」といったわかりやすいメッセージもあれば、深く本人の存在基盤を問い直すものにいたるまで何重もの水準があるものです。
もちろん、その内容は個々のケースによって千差万別であり、それを〈汲み取る〉には個別の丁寧なアプローチが欠かせません。しかし残念ながら、通り一遍の診療の中ではそれらが見落とされていることが多く、患者さん自身もそれを受け取れないまま、症状がいたずらに長期化(遷延化)してしまっていることも少なくありません。これは実にもったいないことだと思います。
しっかり「うつ」をやってみるという“逆転の発想”
長期化してしまった状態の患者さんを担当する場合、当然ながら抗うつ剤による薬物療法などはすでに一通り行われてきていますし、充分以上の療養期間も経てきているわけですが、そこで見落とされてきたポイントを見つけ出しアプローチすることが必要になってきます。そこで見えてくるポイントの1つは先ほど述べた「メッセージを汲み取る」作業ですが、もう1つ大切なことがあります。それは、療養の「質」を見直すことです。
病は気から?――「ウツ」は“闘って”治るものなのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(13)
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はじめのところで、「病と闘う」という考え方自体が「うつ」の回復を妨げてしまう側面があると述べましたが、それはつまり、「病」を駆逐すべき対象として捉えることによって、自分の「心」(=「身体」)への「頭」によるコントロールを強化してしまうことになり、それが「うつ」をひき起こしたのと同じ内的な状態を生み出してしまうからなのです(第1回参照)。つまり「病と闘う」と考えることは、自分の内部で「心」(=「身体」)と「頭」が闘う状況を生み出し、「うつ」を自ら再生産しているような悪循環に陥ってしまうわけです。
そこで、「病」に〈従ってみる〉という逆転の発想が、療養の「質」を変える鍵になります。
「うつ」に〈従ってみる〉とは、「何もしたくない」といった「抑うつ気分」や「意欲減退」に身を任せてみることを指します。私は診療において、「しっかり『うつ』をやってみて下さい」とお伝えすることがよくありますが、これによって「自分を責めながら」になっている療養を「質」の良いものに変えようと働きかけるわけです(ただし、あくまでこの「抑うつ気分」のように一次的な症状に〈従ってみる〉のであって、決して「希死念慮(死にたい気持ち)」のような二次的に生じた症状に従うものではありません)。
放電しながらの充電では延々と充電は完了しないものですが、「自責」という放電の原因になる考えを止めることによって、「療養」という充電がはじめて有効なものになっていくのです。そして真に充電が完了してはじめて、「心」(=「身体」)は「頭」の関与なしに自発的で自然な意欲を発するようになります。つまり療養の「質」は、「自責」をいかに排除できるかにかかっているわけです。
現代人の「うつ」は、大まかに言えば、「頭」によるオーバーコントロールに対する「心」(=「身体」)の反逆という要素を必ず含んでいます。そういう事態から生じた「うつ」という病態に対して、力ずくの「北風」方式のアプローチでは、事態を泥沼化させることになってしまいます。そこで、「今はすべての義務からいったん解放されて、とことん休みなさい」と言っている「うつ」の症状に従ってみることが、本当の回復に向かうための「太陽」方式の療養の第一歩なのです。