実は「自分らしく生きられるのならば、生きたい」という
心の痛切な叫びであるとも考えられる・・・>
そう。
もし自分が自分らしく生きられている、
自分の力が発揮されることで
達成感が得られるのであれば
もっと力強く生きていたい。
そう思っている。僕も・・・
なぜ、「死にたい」と思うのか?――「ウツ」と「自殺」の関係
――「うつ」にまつわる誤解 その(11)
http://diamond.jp/series/izumiya/10011/
皆さんもよくご承知の通り、自殺は「うつ」における最大のリスクであり、社会的にも大きな問題になっているものです。
「どのような心理で、人は死を望むようになってしまうものなのか?」
「死を望む状態の人に、周囲の人間はどう関わることができるのか?」
非常に重いテーマではありますが、「うつ」を考える上で、決して避けて通れないこれらの問題について、今回は真正面から考えてみたいと思います。
死を望む人の心境とは?
多くの場合、「死にたい」と訴えるクライアント(患者さん)は、積極的に「死」を望んでいるというよりは、むしろ、終りなく続くように見える苦しみからとにかく解放されたいという気持ちを強く抱いて、「死にたい」という言葉を口にされるものです。
「死にたいなんて、とんでもないことを考えてはいけない」
「死んだら周りの人がどんなに悲しむか、考えてごらんなさい」
「死ぬのは罪であって、人は生きなければならないものだ」
「生きるのはとても素晴らしいことなのだから、死んではいけません」
「死にたい」と告げられた周囲の人は、このような言い方で反応することがとても多いようです。どれも「どうにか生きてほしい」という強い願いから発せられたはずの言葉なのですが、しかし、これらの表現では意図に反して相手に「理解してもらえなかった」という落胆をひき起し、さらにその人の自責の気持ちを強める結果を招いてしまうことになってしまうのです。
さて、それはなぜなのでしょうか?
「死にたい」という言葉
の裏にある気持ち
「死にたい」という気持ちを口にする人は、たとえわずかでも「ひょっとしてこれを話すことによって何らかの救いが得られるかもしれない」という期待を持っています。だからこそ、言いにくい気持を思い切って打ち明けているのだ、ということを聴く側は見落としてはなりません。
打ち明けている本人は、「死にたい」と思っていることについて、決して罪悪感を持っていないわけではありません。むしろ、そんなことを考えてしまう自分を、執拗に責め続けてさえいるのです。
そんなところに、先ほどのような「道徳的な説教」をされてしまいますと、「道徳的に自分を律することもできないダメな自分」という形で、さらに自己否定を強化する方向に追いつめてしまうことになるわけです。
このような場合にまず必要なのは、本人の感じている辛さへの「共感」の作業です。「死にたい」という言葉が発せられている時点では、まだ「死ぬ」こととイコールなのではありません。むしろ、「死にたいくらい辛い」というSOSのメッセージなのです。
ですから、何ら有効な助言などできなくともかまいません。中途半端に口を差し挟まずに、ただひたすらに「聴いてくれる」人間がいるだけでも、「死にたい」ほどの辛さは少しでも軽くなる部分があるのです。
なぜ、「死にたい」と思うのか?――「ウツ」と「自殺」の関係
――「うつ」にまつわる誤解 その(11)
http://diamond.jp/series/izumiya/10011/?page=2
「死にたい」が
封じられることの危険
しかし、ひたすらに「死にたい」という気持ちを聴くことが可能になるためには、聴く側の人間自身が「道徳」という規範から自由になっていなければならないという問題があります。つまり、「死にたいなんて考えるのはよくないことだ」という一般的な道徳の範疇に留まっている限り、「死にたい」人間の気持ちに「共感」することには原理的な無理があるわけです。
私たちは日頃、「死」というものから遠ざかって生活しているために、「死」という言葉を耳にしただけで、あわてふためいて、目をそむけてしまいがちです。それゆえに、「死にたい」という苦しみが吐露された場合に、それを受け止めきれずに、つい「道徳」や「ポジティブシンキング」などを持ちだして、もうそんなことを相手が考えないようにと封じ込めるような応対をしてしまうのです。
厳しい指摘かも知れませんが、先ほど挙げたような応対では、相手のことを思って発言しているように見えて、実は「死」から目をそむけたいという無意識が現われた発言になってしまっているわけです。
死にたいと打ち明けた人は、そのような反応が返ってきた場合に、「もうこの人には本当の気持ちを打ち明けるのはよそう」と考えて心を閉ざしてしまい、「大丈夫。もう死にたいなんて思わないから」と元気な自分を演じ始めるという、痛々しいことになってしまいます。そうして「死にたい」がどこにも言えないような状況がつくられてしまった場合にこそ、最も自殺の危険が高まってしまうことになります。
回復期における
「衝動的な自殺」に要注意
内因性うつ病など、古典的なタイプの「うつ病」(第5回参照)の場合には、通常、発症以前には「死にたい」という気持ちは存在していません。しかし「うつ病」の病的な働きによって、病状がある程度以上悪化したところから、唐突に「死にたい」という気持ちが出現してくる傾向があります。クライアント自身にとっても、それはどうにも制御不能なものとして、強くのしかかって来ます。
しかし、「うつ」状態がとてもひどい時期には、すべての意欲も活動性も落ちていますから、かえって自殺の意欲も弱まっていることが多いものです。むしろ心配なのは、その後復調していく途上において、意欲が回復してくるときなのです。いまだ不安定に揺れる気分と、ある程度回復した意欲とが、不幸にも「自殺の意欲」という方向で合体してしまったときに、衝動的に自殺が完遂されてしまう危険があるのです。
気を付けなければならないのは、このような回復期においてクライアントは、決して持続的・計画的に自殺を考えているわけではなく、「早く治りたい」「治ったらあんなこともこんなこともしよう」と前向きなことを考えられる状態も混在しているので、直前まで自殺衝動が予測しにくいという点です。この「回復期にこそリスクが高まる」ということは、ぜひ皆さんに知っておいて頂きたい重要なポイントです。
なぜ、「死にたい」と思うのか?――「ウツ」と「自殺」の関係
――「うつ」にまつわる誤解 その(11)
http://diamond.jp/series/izumiya/10011/?page=3
このようなタイプの「うつ病」の方の場合には、薬物療法の果たす役割がかなり大きいので、ある程度よくなったからといって早急に減薬や断薬を行なうことは危険を伴います。
またこのタイプの方は、性格的に非常に周囲に気を使う傾向が強いので、余計な心配をかけまいと、身近な人にまでも「元気な自分」「前向きな自分」を自動的に演じている場合が少なくありません。ですから、「面倒くさい」「さぼりたい」「今日は調子が悪い」「ずっと休んでいられたらどんなに楽だろう」といった正直な発言が自然体でできるような方向にむけて、医療側も周囲の人間もサポートしていくことが大切なのです。
潜在的な「自殺願望」
を持つタイプも・・・
さて一方、非定形うつ病・パーソナリティ障害を背景にしたうつ状態・神経症性のうつ状態等の病態(第5回参照)においては、古典的な「うつ病」の場合とはずいぶん内実が違ってきます。
クライアントは発症するはるか以前から心の奥に自己否定を宿していることが多く、「死にたい」という気持ちは時期による強弱の波はあっても、持続的で然るべき歴史を持っていることが多いようです。ですから、いわゆるリストカッティングなどの自傷行為などを伴ったり、摂食障害などが見られたりすることも珍しくありません。自殺未遂が何度も反復されるケースもあります。
このような病態では、古典的な「うつ病」に比べて、薬物療法はごく部分的な効果しか期待できません。むしろ、精神療法が果たす役割が大きいタイプであり、たとえば、生育史を丁寧にたどって自己否定の由来を明らかにしつつも、健全な自己愛を蘇生させる方向でガイドしていく、高度に専門的な対応が必要になります。
心の奥に根深い人間不信や愛情への渇望が潜んでいることも多く、素人が中途半端な善意で関わっても、結果が裏目に出てしまう場合が少なくありません。
また、「道徳的な説教」などは、このようなタイプの方たちにはまったく通用しません。内的に苦悩し、人間不信にもとづくシニカルな視点で人間観察を重ねてきた鋭い感受性と根深いペシミズム(厭世主義)とが、「道徳」を説く人間の無意識的な自己保身や「死」を突きつけられての困惑などを鋭く見抜いてしまうためです。
ここで精神療法の具体的内容に触れることはしませんが、このような高い感受性と内省力を備えたタイプの方たちの治療は、然るべき質を備えたものであれば、その資質が社会的に素晴らしい働きを示すようなところまで十分に到達できる可能性があるものです。
私はこれまでの臨床経験から、「本人が持て余している能力が症状に転化されているので、どうしてもその分症状が派手になっていることが多い」のではないかと感じています。この観点から見れば、このタイプの方たちの「死にたい」という気持ちの激しさは、実は「自分らしく生きられるのならば、生きたい」という心の痛切な叫びであるとも考えられるのです。